よしのももこさんの本と二人の島生活について


Momo-Sei の二人は現在、瀬戸内海に浮かぶとある小さな島で生活をしています。よしのももこさんはこれまで2冊の本を出していて、他にも自主小冊子の刊行も。

 ●『ジドウケシゴム』(2023年 冊子のヨベル)


 ●「土民生活流動体書簡集(一)—バックレ可(笑)—」(2023年 虹ブックス)


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 —どちらの本の表紙もなかなかシュールながらほわっとした感じですが、ももこさん作の版画ですか?

M:『ジドウケシゴム』のほうはわたしの版画です。「土民生活流動体書簡集」のほうはmoineauさんという方の版画なんですが、わたしが以前からツイッターで作品をお見かけしていてかっこいいなあと思っていて、ぜひ表紙をお任せしたいなって思ってお願いしました。版画を摺るのも見るのも好きなんです。もっともシンプルな部類の「自主制作」のやり方ですしね。どちらもいい表紙だと思います。好きです。

 — まず一冊目の『ジドウケシゴム』、島に引っ越し後に書いたんですか?

M:そうです、結構経ってからですね。まず2019年の2月から2020年の2月までの一年間、毎日単行本一ページ分の小説の断片を書く、っていうのをやりました。別に誰にやれって言われたわけでもなく、勝手に。それを365日間続けたあと、書いたものはずっとほったらかしにしてたんですけど、2年近く経ってから急に「もう一度動き出しからやって小説にしよう」と思い立って書きました。

 — 出すきっかけは? 出版されてる「冊子のヨベル」とは自主制作ですか?

M:ずーっとほったらかしていた断片を手がかりに小説を書こうと思い立ったきっかけが、とあるマイナーな文芸雑誌の新人賞に応募したくなったからで。といってもわたしはそういう文芸雑誌みたいなものを読んだことがなかったし賞にもいっこも興味がなくて…曲を作って歌うときと同じで「デビュー」がしたいとかそういう気持ちがまったくないので、本当ならああいうものに応募しようなんていう気が起こるはずがなかった。

 ところがその賞の選考委員に山下澄人さんという方がいて、この方の書いた『ほしのこ』という小説をはじめて読んだときに「あ、こういうことをこういうふうに書いてもいいんだ、」って、それがたぶん2018年の秋とか冬とかなんですけど、翌年の「断片を毎日書こう」という動きにおそらくつながっていて。だから選考委員の中に山下さんの名前を見つけたときに「あの寄せ集めの者たちのことを書いたものが山下さんに読まれたらどうなるんだろう?」という興味がワーッと。それですぐに引き出しの中からほったらかしの断片をひっぱり出してきて、もう衝動的に書いて応募しました。

 その時点でわたし、選考委員は応募作品をすべて読むもんだと思っていたんですね。さわりだけでも全部の作品に触れるんだろうと信じて疑っていなかった。だから送ったんです。でも実際は選考委員の手前に門番がいて、まず門番が読んで5作品くらいに選抜してから選考委員に渡すっていうしくみだったんですよ! 結果発表の直前にそのことを知って、ショックでした。応募さえすりゃ山下さんに読まれると思っていたのに、『ジドウケシゴム』は門番にはじかれたから、なんと、読まれていなかった!!(笑)…で、質問なんでしたっけ?

 — 『ジドウケシゴム』を出したきっかけは? です(笑)

M:あ、そうか、そうですね、それで、門番がはじいたという程度のことで山下さんに『ジドウケシゴム』が読まれない、というのは変だと思ったので、直で「書いたものを読んでいただけませんか」って連絡をしたんです。そうしたら山下さんはなんていうか、精神が、非常にインディペンデントな方なので…もちろんわたしから見て、ですけども、とにかくわたしの言ったことを文字通りそのまま受け取ってくださって。普通に読んでくれたんです。たぶんわたしが「デビュー」とかがしたくてこれを書いてるわけじゃないことも一発で伝わっていた気がします。「読み始めてすぐびっくりしました、なかなかないですこんなに読める小説」と言われて、ああこれは普通に読める人がこの世にいるものなんだなというのがわかったので、そこで冊子にして自分でリリースする踏ん切りがつきました。やること自体はもう90年代に自主制作のレコード・レーベルで散々やっていたことと同じなので踏ん切りさえつけば特に何ということもなく当たり前のように作れるんですが、踏ん切るまでがひたすら面倒くさい(笑)。そのときすでにもう一冊のほうの本も制作中だったんですが、そっちの編集者さんが何の関係もない『ジドウケシゴム』の組版をこころよく手伝ってくれたりして、とってもありがたかったです。

 — ファンタジーな(?)生き物を通しての視点や、リズミカルな表現が印象的でした。「動けなくなって、ずっと動いていたことが、わかった」「いつも同じだけど、いつも違ってることが、わかった」なんて日常生活に響く言葉とか哲学的な感じもしましたが? 全体的にはどんな構想だったんでしょか? メッセージ性とか?

M:こだまさんがリズミカルに感じたというのは、たぶんなんですけど、このザラマンゥがあまり視覚優位の生きものじゃないんだと思うんです。視覚以外のものでこの世をとらえている率が高いというか。とにかくわたしはザラマンゥがあらわれて最初に「わたしはザラマンゥ」って名乗りをあげたその言葉を信じてついて行っただけで、もちろん言語を使って「書いて」いるのはわたしなので、そこにわたしがそれまで生きてきたすべてが反映されるし、わたしがこの人体を介してここにあらわれるよりも前にここで起こったすべてのことが反映されるわけなんですけど。構想、っていうのはどういうことですか?

 — 「日常生活でのふとした事への感謝の気持ち」への気づきとか、「ポジティブな考え方をすることで普段が楽しくなる」みたいな、前向き励まし的な構想とかあったりしたんでしょか? ってことです。

M:『ジドウケシゴム』を書くときに? ですか? 前向き…励まし…うーん、考えたこともなかったな…本当に、ただ、ザラマンゥに必死についていっただけなので。でも別に書いてるわたしは後ろ向きではなかったと思いますよ(笑)。ほうほう、生きてるねえ、みたいな。

 — 僕だけかもですが、絵本を読んでるような気にもなりました。登場するキャラクターがそれぞれ独特で立体的というか不思議な感じでしたが、ももこさん的に各キャラのイメージした絵とか姿ってありました?

M:キャラっていうか、あの寄せ集めの者たちはどちらかというと細胞とか器官とかそういう感じ…あの、呼び名がありますよね彼らの。あれはぜんぶ音から来ていて、たまたま今回は英語の音でしたけど、エイェが「eye」、イヤレが「ear」、ノッジェが「nose」、ハビが「heartbeat」、マは、これは書いたときは自分でも気付いてなかったんですけど「mouth」で、そういう、つねに入れ替わっているけど唯一無二でもある、互いに作用し合っているものたち、をザラマンゥが見ている、というさまを何とかして文字で、書くことであらわそうと。ひたすらやっていました。絵本を読んでるみたい、っていう感想はとってもおもしろくて、あの、実はちょっと前に聖さんが、『ジドウケシゴム』のコミカライズド版があったらいいのかもね、って言い出したんですよ。マンガ化したやつも読んでみたいねーって、そういう話をちょうどしていたところだったので。聖さん説明お願いします〜

S:ええ? …えーっと、僕は20年前、もしかするともっと前、にポール・オースターの小説をいっぱい読んでて、でも最近は全然読んでなくて、確か本も引っ越すときかなにかで手放してしまっていたのでもうすっかり忘れていたんですけど、『ジドウケシゴム』を読んでしばらく経ったときになんとなくポール・オースターの小説のことをなぜか思い出して。全然違うかもやけど何か自分にとってはちょっとポール・オースターの小説と『ジドウケシゴム』は通ずるところがあったような気もして。特にコミカライズド版の『シティ・オブ・グラス』がなんとなく『ジドウケシゴム』に近かったような…っていうのをちょっと確認してみたくてもう一回買い直して読んでみたところ、これ、やっぱり『ジドウケシゴム』もコミカライズド版ってありなんじゃないかなーって。もしかしたら再度読む前にそれを思ったからもう一回購入したんかもしれへんけど、とにかく読み終わったあとやっぱり『ジドウケシゴム』と何か近いものを感じました。

M:わたしは聖さんがその話をするまでポール・オースターっていう人を知らなかったんです。名前の音は聴いたことがあるような気もするんですけど、どんな作家かわからないから「ふーんそうなんだ〜」って。

S:読んだこともない?

M:ない。わたしはそれまで、小説の映画化とかマンガ化とかに懐疑的というか、読んだ人がそれぞれ自由に創り出した画面を観てくれればいいんじゃないかな、誰かが絵にしちゃうとイメージを限定しちゃうからかえってそれが想像の邪魔になるんじゃないかな、って思っていたんですけど、でも聖さんのそのアイディアはなぜかしっくりきたっていうか…もしかしたら『ジドウケシゴム』はそのくらいの、とっかかりになる補助線が一本あるくらいでちょうどいいのかもしれないな、っていうか。なによりもまずわたしがマンガ版『ジドウケシゴム』を読んでみたくて。あの話を描いてみたい! マンガにしてみたい! っていう人がこの世にひとりぐらいはいるんじゃないかなー? ってちょうど思っていたところだったんですよ。

 — すでに3刷発行になってますが、反応はいかがですか?

M:まあこれは文字通り3回刷りました、っていうだけのことなので(笑)、予算もないし在庫も抱えたくないからちょぼちょぼと小分けにして刷った感じで。3rdは売れる見込みないのに結構刷っちゃってこれはまだたくさんありますから、これから何年もかけてのんびり売り続けていこうと思ってます。反応は…どうなんだろう、よくわからないです。でも、褒められたとかではなくてこう、スコーン! と芯を食った反応をわたしに届けてくれた方が現時点で4人くらいいて、もうそれでじゅうぶん冊子にした甲斐あったな〜みたいな感じではあります。

 — 続く以下の本ではガラッと内容が変わりますが、この『ジドウケシゴム』系のも新構想あるんでしょうか?

M:『ジドウケシゴム』系っていうのがちょっとわからないんですが、小説にふくらむ可能性がなくもない断片がよぎることはちょいちょいあって、まあタイミング次第かなと思います。おばあさんになってもずーっと書くつもりではいるので。いつか書くんじゃないですかね?

 — 姫路のMomo‐Sei ライブの時にお手製のミニ冊子とか販売してましたが、あれいいですね。『ヨシノセイひみつ百科』『はいじまのわたし』『Momo-Sei 歌詞のノート』とか子供が作ってそうな可愛い装丁とか、秘密基地で読む本みたいな感覚でした。あと手書きのチラシも。ももこさんって新聞部でした?

M:演劇部でしたけど、かべ新聞とか書くのはずっと好きでしたよ。

 — 二冊目『土民生活流動体書簡集(一)—バックレ可(笑)—』(以下、土民本)、この「虹ブックス」から刊行した経緯は?

M:2020年に、わたしの書いたものをたまたま手にして読んでピンと来た方が静岡県にいて、それには「よしのももこ」という記名はしてなかったんですけど、気合いと根性でインターネットの大海原からわたしを探し当てて「うちのレーベルから本を出してもらえませんか」って連絡して来てくださったんです。どこの馬の骨とも知らぬ書き手に。すごい熱意ですよね。何をどう本にするかはわたしに任せてくださったので、すでに手元にあった土民生活流動体の書いたものを編む、ということにして動き出しました。最初、何も考えずに「原稿ができましたー!」って渡して組んでもらったら400ページ超とかになっていて(笑)、この重厚さはこのプロジェクトに似つかわしくないということで3冊くらいに分けて刊行することにしたんです。第一集のリリースまでに3年かかりました。

 — 読み終わったら付箋だらけになってました(笑)。「生きているを体現する」島生活に至る考え方とか非常に刺激になりました。これはほぼノンフィクション、実話ですか?

M:いや、さすがにフィクションですよ、そんな都合よくナゾのおもしろい手紙が引っ越し先で発掘されるわけがない。ただ、ノンフィクションかフィクションかの境目ってわたしにはあんまりよくわからないんですよね。それそんなに重要かな? とも思う。とにかく、わたしが見ている《ここ》に、「土民生活流動体」と名付けられた動きがあって、それは個人でも組織でもなく動きそのもので、その動きそのものから出てきたものを、誰に頼まれたわけでもなく、誰に見せるつもりもなく、チラシの裏とかにワーッと書きつけた人間がこの島にいた。「それが誰か」とかはどうでもいいんです。だってどうでもいいでしょうそんなものは!(笑)動きから出てきたものですから、まったくの空想ではないですよね。そのワーッとただ書きつけられてあったものを、いろんな人に読まれる前提でわたしが編んだものがこの本に収録されている「手紙」です。「編む」には「書く」ことも含まれています。どっからどこまでが何なのかは読む人それぞれが、それぞれの五感でも六感でも存分に使ってキャッチするのが一番いいと思います。

 — 「毎日の生活に読めなさを取り戻して、《生きている》のままならなさに日々驚いていたい(113ページ)」予測不能の出来事をポジティブな思考で楽しむって感覚かなと思いますが、一番驚いた事って何ですか?(笑)

M:たぶん「ポジティブな思考で楽しむ」って言い換えたりしなくていいと思うんです。文字通り「《生きている》のままならなさに日々驚いていたい」、書いてあることをそのまま読んでみるというか。わたしの今の生活で言うと予想通りにならないことだらけでいちいちびっくりしていますよ。作物の動向、野生動物の動向、虫の動向、どれが一番とかないくらい驚いてばかりです。

 — 「「買う」以外の何ができて何ができないかを実際にやってみたかった(142ページ)」具体的なご苦労とか書かれてましたけど、それ以上のワクワク幸福感たるやいかがですか?

M:これも流動体じゃなくてわたしの話になりますけど、ワクワクとか幸福感みたいなのはなくて、日々たんたんと実験、実践の繰り返し。毎日わりと必死です。

S:僕も普段暮らしてて幸福感みたいなものを感じることは別にないんですけど、例えばイノシシを獲って、木に吊るして、ナイフでさばいて肉取ってバケツにぽんぽん放り込んでるときとかにふと「あれ? いつの間にこんなことができるようになったんやっけな〜?」という不思議な感覚にとらわれることはあります。

 — 引っ越す前のイメージと違ってた事とか、思ったより良かった点とか?

M:この島に引っ越す前にイメージしていたことって、ないんです。むしろ想定の外に行きたかった。島で生活をしていて、やってみたら意外とできるんじゃんわたし、みたいなことはたくさんありますよ。さっきの聖さんの話じゃないですけど、車の運転とか、虫の始末とか、鶏を絞め殺してお肉にするとか、網戸の張り替えとか修繕とか、「あれっ、わたしこんなこともできてる!」って、よくなります。

 —「セルフ島流し」「消費者大相撲の土俵」「胃の腑の鍵」「アウト・オブ・眼中をキープしたい」とかの独特の表現や、視点が面白かったです。音楽活動時の作詞、作曲活動とはまた違った感覚で思いつくんでしょうか?

M:うーん、わからないですけど、とりあえず「胃の腑の鍵」って言ったのは大杉栄だと思います(笑)

 — 作中で紹介、引用している数々の本がありますが、ボクも興味があったので古本を見つけて読んでみましたが、それぞれめちゃ面白かったです。東京の古本屋で偶然? 誰かの紹介で買ってみたとか?

M:わたしも本の中に出てきた本買っちゃうこと多いのでわかります。だから土民本がリリースされるときも、「これ読んだら、この中に出てくる本をかき集めて並べて特集組んだりしたくなる本屋さんいっぱいいるだろうなー、なんせ本屋さんだもの!」とか思っていたんですけど、全然そうでもないみたいで驚いちゃいました。むしろこだまさんの反応が今のところ一番ビビッドかもしれないです(笑)。あと、質問とはちょっとズレますけど、わたしは人に是非これ読んでみて! って言われて本を読むことがほとんどないです。この身で直に出会った本を読みます。

 — 自分がワクワクしてたら自然とオモシロイことや興味のあるものが寄ってくるってのがボクの日々の感覚なんですけど、それらの本と出会った時とか、二人が都会を離れる決断をした時ってワクワクしてました?

M:どうかなー、あんまり何も考えてなかったような? どこかに住める家が見つかったらこんなところとっとと脱出だー! としか思ってなかった気がします(笑)

S:どうやったかなあー、覚えてないなあ〜…あ、景色がええとこやな、とは思ったかな。海があって山があって。

M:あとは荷物どうやって運ぼうかとか、学校の転入手続きどうやるんだとか、ただただ実務に追われていたような…でも、全体的にこの先どうなるかまったく読めないので楽しみだな〜みたいなのはあったので、それがワクワクといえばワクワクなのかな?

 —「農家が教える自給農業のはじめ方」「糞尿博士・世界漫遊記」なんて、今の島生活に直結してそうな実践本と思いますが、簡単にできたこと、難しかったことってそれぞれあります?

M:糞尿博士はエキセントリックすぎてあんまり参考にはならないと思いますけど…(笑)中島正さんの本は完全な手引書ですよね。あれ見てやればそうそう失敗しないんじゃないかと。書いてある通りにはほぼ行きませんけど。

S:ニワトリの方は中島さんの書かれていたことを参考にしてやってみて、何とか8年やり続けられてますけど、本の中で中島さんが勧めていた陸稲、畑で栽培するお米ですけど、あれは何度やっても全然ダメでしたね。夏場の除草や収穫後の始末とかが大変で。

 — 前述の本や、この本の「あやとり」項目での「堆肥体(コンポスト)」〜生死のプロセスとかの表現は、消費社会への強烈なアンチテーゼというか、警告というか、パンク的発想でもあるし、極自然な生き方への回帰の提唱とも読めました。実生活で今後やってみたい事とかまだまだあります?

M:たぶんなんですけど、ダナ・ハラウェイがしている話はそういう「極自然な生き方」っていうふうに言うときの、その「自然」ってどこにもないですよね、みたいなことだと思うんです。「消費社会への強烈なアンチテーゼ」とかをかますことができる傍観者の位置にわたしたちはいない。っていうかそもそもそんな位置はないですよねえ、みたいな。なんでもかんでも「人類の、人類による、人類のためのストーリー」に回収するの、いつまでやるの? っていう。わかりませんけど。うーん、実生活でやってみたいこと…結構いろいろがんばったんで、もういいかなーって(笑)。わりと最低限の「生きていける」自信は獲得しましたし。

 — 英国のCRASS の考え方とかって参照しました?

M:してないです。名前は聞いたことあります。

S:僕もなんかCRASSっていう自給自足とかで頑張ってるバンドがいる、らしい、ぐらいで、よく知らないです。

 — 紹介されてた「ハーレムの闘う本屋」の主人公のオッチャンって公民権運動の元祖なんですね。キング牧師、マルコムXや、サム・クック、ニーナ・シモン、ボブ・ディラン周辺のミュージシャンしか知らなかったので勉強になりました。なにきっかけであの本を買ったんですか?

M:マルコムXのこと調べてて、じゃないですかね? わかりませんけど。

 —「右へ倣え的発想に風穴を開けて個性を拡げていくべきである」とかの観点って、国の未来にもつながる素晴らしい考えと思います。僕自身学生時代にひねくれてたので同感しますが、実際に子育てに活用されました?

M:こどもが勝手に育っていくのを一番近いところで見て、あれこれ手を出したり貸したりしているときって、そういう「観点」とかが入り込む余地がないですね。こどもはこどもでわたしや聖さんとはまったく別の生きもので、こっちが何かの成果を狙って手出ししたところで狙った通りになんか絶対ならないし、とにかくちゃんと食べてちゃんと寝て、しかるべき時期に家が居心地悪くなって勝手に巣立っていくように、っていうのだけクリアしていればあとは何でもいいと思っていました。わたしは心配性なのであれこれ口出ししちゃうんですけど、そこは聖さんの特性がぜんぜん違うのでバランスが取れて助かりました。せがれがどう思っていたかは知りませんけど。

 — 作中でちらっと書かれてたんですが、あの可愛らしいルックスのケシャチョー(聖くん)が、事情があるにせよ「イノシシ」を捕獲しているってのにびっくりしました。どんなきっかけでやり始めたんですか?

M:これもさっきのと同じで、本には「ケシャチョー」としか書いていないんだから、ふーんケシャチョーっていう人がいたんだなーってそのまま、騙されたと思ってとりあえず乗ってみるのはどうでしょう。聖さんのことを書きたいときは、わたしは「聖さん」ってちゃんと書きますから(笑)

 で、えーと聖さんがイノシシを捕獲しはじめたきっかけについては土民本の第二集に書きました。第二集では、ただ流動体の「手紙」を収録するだけじゃなくて、編者だったよしのももこも自分の話を書きはじめたんですよ。その「よしのパート」の中で詳しく書いてますのでそちらを是非お読みください。ただ、「編み手だったよしのが急に自分の話を書きはじめた」っていうのが編集者の当初の構想とは違っていたというか、そこをどうするかっていうのが見えるまでじっと待っていた期間があって、第二集の制作は予定より少し押しています。もしかするとリリースはだいぶ先になるかもしれないのですが、とにかく聖さんが狩猟免許を取るに至った経緯を書いたものはもう存在しているので、いずれ読めるようになる日が来ると思いますので楽しみにお待ちください。

 — そのイノシシって本州から泳いで渡って来たのが多いって聞いてびっくりしましたが、検索したら各地で結構似た例が多いらしいですね。チャレンジャーだなぁと思いますが、同じ島に渡った挑戦者同志として奴らに思うことってあります?(笑)

S:僕らは島に来たらもうイノシシがここにいたので、家の近くとか畑とかが荒らされているのを見て「ああここにはイノシシがおるんやな〜、それやったらちょっと大変やなあ」と、最初からそうやったんでそんなもんかと思っていたんですけど、元から島にいた人たちはそもそも生まれてこのかたイノシシなんて見たことがないっていうおっちゃんやおばちゃんばっかりで、何十年も田畑が荒らされたことなんかなかったのがたったの数年であっという間に島がイノシシに乗っ取られて、あちこち襲撃されてめちゃくちゃにされたわけなんで、イノシシが大嫌い! とか腹が立つ! とかそういう声がずっと聞こえてきて。なので僕がイノシシに対してどうこう思うことはないんですが、とにかく皆に嫌われてるんやなあっていうのはビシバシ伝わってきます。捕獲したときの喜ばれ方がものすごいですしね。「頑張ってくれよ!」「頼むで!」とか、よく声かけられます。

 — あの島行ったら美味しいもんありそう! って妄想するのか、先鋒隊からテレパシーで聞いてるのか謎ですが、なんで命賭けてまで泳いで来るって思います?(笑)

S:そもそも本土でイノシシが増えすぎていなければわざわざこんなとこまで来ないと思うんですが、たぶん増えすぎてしまったので縄張り争いとか食べもの争奪戦に負けた個体が渡ってきたのかなー、あとはこの辺りに狩猟圧が高いところがあって、海辺に追いやられた個体が仕方なく…とかいうパターンもあるかなー、とか、まあどうしてなのかはイノシシにしかわからないので全部想像でしかないんですが。

 — 奴らが農作物を荒らすのも人間の消費社会の影響とも思いますが、実際やられたら憎たらしくないですか?(笑)人間界の自業自得で「与えたものが返ってくる」なんて考えもありますが?

M:たぶん人間が何社会を形成しようが昔っからイノシシのすることは別に変わってないし力はイノシシの方がずーっと強いんじゃないのかな?

S:人間が何か品種改良とか肥料の発明とか、作物が早く、大きく、たくさん栽培できるように技術を上げていけばいくほど、野生動物はそれを見逃さへんのんちゃうかな? 例えば山の中でおいしい実が生って落ちてくるのを待ってるより、年がら年中おいしい食べものがある人間の畑に行った方が効率ええやろうからなあ。

M:「あの毛のないつるつるの生きもの、一か所に食べもの集めといてくれるから便利だよな〜」みたいな。

S:畑に入られたら憎たらしくはあるので、まずは対策です。入られないように柵をしたり。

 — 「害獣」とは人間側目線で、向こうからしたら人間こそ「害人」と思うはずで、悲しいかなお互いの生活テリトリー崩壊の累積結果と思うんですけど、奴ら目で何か訴えてません?(笑)

M:これさ「最近は人間が山を開発して荒らしてしまったから食べものがなくなってイノシシが仕方なく里に…」みたいなストーリー好きな人、SNSとかでけっこう見かけるけど、たぶん違うんだよね?

S:たぶん日本列島の先住民はイノシシの方で、人間のほうが侵略者なんは最初からそうやろうからなあ。僕らはイノシシと遭遇したらそれまでと違う動きをしてしまうけど、びっくりして声出すとか作業の手止めて追い払うとか、でもある程度の距離を保って何もしなければ向こうもそんなに何とも思ってへんのんちゃうかな。

M:それはこっちも同じだよね、別にただうろうろしてるだけで何もしてこなければ何とも思わない。

S:ただイノシシは「何かしてきた」場合とんでもないことになるから(笑)、石垣を一晩で崩す、畑の作物を一晩で食いつくす、あたり一面掘り返す…

M:強すぎるんだよね、車一台くらい軽く廃車にしちゃうし。千松さんの本に「獣害はあるけど害獣はいない」みたいなこと書いてあったけど本当それだと思う。確実にそこにあるのは「害」で、害をなんとか食い止めないとやばいっていうだけのことというか。

S:もともとイノシシのテリトリーやったんを侵略して人間の住みやすいようにしてたところからだんだん人が減って耕作放棄地とかが増えてくればまたイノシシが盛り返してくるんも当たり前やと思うし、そもそも山にイノシシ/都市に人間、みたいに完全に棲み分けができてたここ100年くらいの状況のほうが特殊やった、って何かで読んだような。

M:イノシシの話長いね我々(笑)

 —インターネットが無かった時代に比べて今や当時の数十倍の速さと仕事量をこなしてる人間って、動物から見たら異常な生き物に感じてるはずで、そのうち自然界でセルフ淘汰、バクテリアに制覇されるのではと妄想しますが、コンポストのプロ的に見てどう思いますか?(笑)

M:きっと野生動物はそこまで人間のこと特別視してないですって! 狩猟とかやってガチでからんでくる奴のことは認識してても、あとはなんか邪魔なのいるなーぐらいの。いや知りませんけど。

S:特に付け足すことはないです(笑)

 — 地価公示で銀座の一等地が値上がり、田舎の土地が値下がる状況を「ラッキー」って楽しまれてる感覚にハッとさせられました。人口減少でこれからの日本の田舎はどうなっちゃんですかね? 現状の島内の活気はどうですか?

M:「田舎の土地が値下がる状況をラッキーって楽しんでる」って、この本に書いてありましたっけ?…たぶん書いてないはずです。土地に値段をつけること自体ひとつもしっくりきてないので、どこが値上がろうが値下がろうがわたしの生きている動きにはほんとうに関係なくて。これからどこがどうなっちゃうかは人間のスケールじゃ測れっこないし、この島の活気がどうなのかは前を知らないのでよくわかりませんが、とにかく人はいません。ここ数十年と同じような生活を維持しようとするなら人の手は確実に足りてないと思います。維持する必要があるのかはまた別として。

 — 島でのんびりしてるのかな?と思いきや、メチャクチャ忙しい生活してそうですが、都会での忙しさとの質の違いってありますか?

M:人間の思惑が複雑に絡み合うタイプの忙しさは精神がきついし、ペースは自分で加減できるけどやることが無限にあるタイプの忙しさはからだがきつい、それは都市部でも島嶼部でも同じかなと思います。比率が少し違うかな? 今は後者が多めなので、健康です。

S:人から雇われる仕事は、忙しいふりというか仕事してますよアピールしなきゃいけないのが自分には向いてないなーと思います。でもこれは都会とか島とかあんまり関係なかったですね(笑)。今は誰にも仕事してるアピールをしなくていいので楽ですね。

 — 前述の二冊もアルバム「umareta」の再発時に一緒に販売しようと思ってます。「Momo-Sei」のファンの方へもメッセージ、セルフ宣伝ありましたら是非。

M:わたしが「Automatic Eraser」という曲を書いたのが1997年くらい、23歳のときですけど、その言葉とたまたまそこで遭遇してからずーっとなんとなくつきまとわれていたものがなぜか2019年になってまた動き出しの素になって、もはやミュージックですらなく小説になりました。じゃあ「Automatic Eraser」の歌詞の内容が『ジドウケシゴム』になったのかというと別にそういうわけでもないのですが。自主制作のデモテープとかを楽しく聴ける人はこの小説も普通に読めるかもしれないです。大きな本屋さんやアマゾンとかでは買えないんですけど、気が向いたら手に入れて読んでください。

S:僕はとにかく誰か『ジドウケシゴム』のコミカライズド版描いてくれないかなーと思っています。

M:あははは、念押ししとかないとね。

 — 今後もいい曲、いい本を書かれることを期待します。楽しくお過ごしくださいませ。第二弾インタビューも長々とありがとうございました。

(聞き手:タイムボム・レコーズ代表 こだま)

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